チャオと小説と黒歴史(2)
どうも。それがしです。
皆さんは中二病に掛かったことはありますか?
あるという方は、その時代、一度でもポエムを描いたことがありますか?
僕はあります。それも沢山。
しかも、あろうことか、僕は自室の机の引き出しにそっとしまっておくべきそれらを、ほぼ漏らさず、チャオBBSの週刊チャオに投稿し続けていました。
どうしてそんなことを当時の僕はしでかしたのでしょうか?
今回はそんな話です。
僕も音楽活動がしたい!……と思った中学生それがし
小学校のころ、もっと言えば、中学の前半まで僕は音楽に全く興味がありませんでした。
だから、同級生の女子が「オレンジレンジって知ってる?」って聞いてきて、「え?最近はミカンを電子レンジで温めるのが流行ってるの?」と返してしまい、彼女から冗談かと大笑いされた覚えがあります。僕は割と本気でそう言っていたのですが……。
※その当時、2005年頃はオレンジレンジという6人組バンドの全盛期で、厨房の陽キャならだれでも知ってるようなバンドでした。パクリ騒動とか有って人気は窄んでいきましたが、今考えると、あのパクリ元もこじつけ感が強くて、なんだか可哀そうだな、とも思ってしまいます。
僕は正直、一人狼のごとく、周りが知っていて僕が知らなくても全く問題ない、なんて断言できるほど強い奴では無かったので、クラスの流行の波にのまれるように、半ば強制的に、友達からCDを借りて〈音楽〉を聴き始めていました。
別に、今みたいにマニアック志向でも何でもないので、当時流行った――それこそオレンジレンジとか、バンプオブチキンとか、ポルノグラフィティとか、ラルクアンドシエルとか、モンゴル800とか、そういうのをずーっと聞いてました。
で、いつの間にかハマってしまっていたんですよね。
皆さんに同様の経験があるかは分からないですが、人は本当に良い作品に触れると、小説にしろ、絵にしろ、音楽にしろ「自分もいつかこんな作品を作り出してみたい!」という創作欲が出てくるものだと思っています。
例えば、週チャオにしても、僕がどうして小説を始めたかと言えば、周りがすんごい良い小説を書いていたからです。今となっては「ん?」となる物も多いのですが、その時の僕は本気でそう思いました。
もちろん、自分のを書き始めたときは「僕だってすぐにこれくらい書ける!」という浅ましい自惚れは多々ありました。
けれど、根底にあるのは「自分もこんな風にすごいものを作って認めて欲しい!」という純粋な意志に他ならないんじゃないかなと思います。
そして、それは僕が文字通り〈ハマった〉音楽にしても同じで、何度でもリピートできるメロディと、深く突き刺さる歌詞に魅了されて、それで僕も同じように「こんな曲や歌詞を書いてみたい」なんて思ったんです。
とはいえ、音楽と言うのは中々ハードルが高い趣味の一つだと思います。
まず初期投資が必要なことは言うまでもありません。ロクにバイトもできない中学生には高い出費です。
しかも、折角大枚をはたいて準備した楽器も、すぐ演奏できるかと言えばそうでも無く、他人に聴かせるレベルまで持っていこうと思ったら相当練習が必要だし、場合によっては割高なお金を払ってでもレッスンに行くことかってあると思います。
そうして、ある程度弾けるようになって、そこからさらに作曲ができるようになるには、思い付きだけじゃ出来ない〈音についてのお勉強〉が必要な部分もあって――少なくとも当時の僕にはそこまで辿り着くプランすら考えつかなかったですね。
※今でこそDTMといった割と本格的な音楽制作の環境が簡単に自宅でも用意できる時代になりました。当時はそういうものもまだまだマニアな(というよりプロ向きな)領域だったはずです。逆に、今音楽制作をされている方は、いかに自分の現環境が恵まれていることか。
だから、作曲とか、演奏とか、少し経験値の必要そうなことはすぐに取り掛かるのは難しそうでした。
じゃあ、何が残るかと言えば――そう、〈歌詞〉です。
悪夢への第一歩、お歌詞メーカーと化したそれがし
まーた、それがしが馬鹿なことを考えている……という話ではあるのですが、今考えても、ある意味、この選択は合理的ではありませんか?
なんたってお手軽ですもの。
紙と鉛筆さえあればいつだって書けます。
授業中だって書けます。
それに、楽器や作曲みたいにお金も沢山かかりません。
ね、合理的でしょう?
……あ、いや、ええ、分かってますよ。
もちろん、本物の歌詞を作ろうと思ったら、色んなことを考えなくちゃいけません。
曲との融合の中で聞き手に引っ掛かりを感じさせないようにリズムに乗せたり、ボーカルが歌いやすいように語感を整えたり、その中で自分の伝えたいことを一貫させたり、課題は尽きません。
でも、創作欲と言うのは、そう簡単に諦めがつくわけでも無く、「作りたい!」と思えば、たとえどんな形でも作品にしてみたいじゃありませんか。
だから、僕も、書き始めました。
僕なりの〈歌詞〉を。
鉛筆でノートの端にこそこそと、まるでJ-POPの歌詞にありそうなシチュエーションで僕も僕なりの〈音楽制作〉を始めたわけです。
実を言うと、けっこう楽しかったです。
言葉にしつつ、頭の中には素敵なメロディーだって浮かびました。
もちろん、それが具体的に何の音か、何のコードに乗っかってくるのかは全く分からずじまいの鼻歌程度のメロディーでしたけど、確かに僕は創作活動をしているんだという意識が芽生えました。
とはいえ、そこは田舎の中学生。
思い付きで書けるほどの語彙も経験もありません。
所詮、粋がった男子でしかなく、誰かの心にそっと寄り添えるだけの懐の深さだってありません。
とにかく独りよがりで、自分がカッコいいと思うものをただ羅列して、伝えたいこともバラバラ、歌詞として揃っているようで何も揃っていない、――言い換えれば〈酷いモノ〉を延々と文字にして外へと垂れ流し続けました。
けれど、自分の自称〈歌詞〉がそんな風になっているとは当時の僕が知るはずもありません。
書けば書くほど「俺って才能あるじゃないのか」と調子づいていったのですから。
さらに運悪く、インターネット回線がついにそれがし自宅にも繋がってしまいます。
好奇心旺盛な中学生それがしはインターネットを知り、チャオBBSを知り、そして、ついに――〈週刊チャオ〉という、創作したものを発表する場としては都合のよすぎる場所を当時の僕は知ってしまったのです。
ノートの切れ端で縮こまっていた僕の恥ずかしい歌詞モドキは、こうして人目に触れる世界に飛び出していきました。
もし今でもチャオBBSが存在するなら、多分僕のポエムがいっぱい見られます。
記憶に残る限りでは、それらに対する感想は一つたりとも付いていませんでした――ていうか、何を感想として述べればええねん、というものばっかりだったので(当時の僕もそこは何となく感づいていたので)当然と言えば、ま、当然ですね。
でも、心折れずに、毎週ポエムを描き続けられたのは、先ほど述べた通り、自分の中でその歌詞モドキに圧倒的な自信があったからなんでしょう。
あれから十数年、現在のぽえみーそれがし
――で、なんですけど。
あのとき、チャオBBS……週刊チャオという衆目の中に晒されたポエムたちは今、どうなったと思いますか?
チャオBBSの消滅と共に、すべていなくなってしまった?
僕の黒歴史は決してみられない想像上の産物?
いえいえ。
な、なな、なんと!
その黒歴史の殆どが、週チャオライブラリー内で未だどっさりと陳列されているのです!お願いだからもう消してくれ!!!
まったくもー、ですよ、ほんとに。
どこのどいつかは知らないですが、「週チャオの記録を全て残してやろう!」なんていう余計なことをする方がいましてね。
チャピなんとかさんって言うんですけど。
彼が纏めた週刊チャオライブラリー内に、僕の当時のポエムもバッチリ残されてます。
で、このブログのリンクにも、週刊チャオライブラリー、有るでしょ?
なんで、皆さんもね、ぜひ!
僕の作った可愛い可愛いポエムたちを一度見てやってください!(やけくそ)
――とはいえ。
僕も今読み返せば多少頬が赤くなることも有りますが、思った以上にネガティブな印象を抱くことも有りませんでした。
もちろん、ダメな作品であることに変わりはないんですけどね。
本当は、もっと、この歌詞モドキのエピソードに関しては間違いなく黒歴史っぽくなることを想定して、自戒を込めて〈チャオと小説と黒歴史(1)〉を書き始めたんですが、この(2)を綴るにあたって、昔の詩を読み返してみて、逆に感心してしまうことも有ったのです。
だから、(1)ではおどろおどろしい、形式ばった文体で書いてるんですが、今は丁寧で柔らかい文体で書いています。意図をもってそうしているつもりは無いのですが、今回の趣旨を考えるとき、あまり硬い文章を書く気にもなれませんでした。
それは、この20周年記念に参加するにあたって、当初、過去の自分自身を〈反省の対象〉で見ていた僕が、それはそれで一人の〈意志を持った人間〉が存在していたのだと、昔の歌詞モドキを通して垣間見ることが出来たからだと思っています。
例えば、昔の僕は本当にシンプルな言葉づかいで(ある意味強引ともいえるくらいに)すらすらと内容を進めて行くんですよね。それは小説にしてもそうですし、物語形式の歌詞にしてもそうです。
翻って、その頃の僕から成長したはずの〈今の僕〉には、それが全く出来なくて困っているのです。この文章を見ればお分かりの通り、余計なことを考えては、それをいちいち文章化するものだから、冗長で、まとまりのなく、中々前に進んでくれない記事が出来上がってしまうんですよね。
今の僕が持っている欠点を、過去の僕は持っていませんでした。言い換えれば、今の僕が失ってしまった良さを、過去の僕は確かに持っていたのです。
――シンプルに、真っ直ぐに物語を紡いでいってるよな、コイツ。
と、素直に、僕は感心したわけです。
それは、考えように寄っては、単純な語彙力不足であったり、長文を書く能力もバイタリティも無かったというネガティブな理由も多々あるのでしょう。
ですが、それも含めて、ちゃんと短くても、自分の言いたいことを纏めて、昔の僕はたとえ駄作でもそれを〈作品〉として週チャオと言う世に送り出していたのです。
このことは素直に我が事ながら、評価して良いんじゃないかなあと思います。
まとめ
さて、チャオと小説と黒歴史(1)では、先述した通り、今振り返って過去を反省するという趣旨で記事を書いていたので、過去の作品を見返して「今の自分の糧になっている」という表現をしたと思います。
けれど、今記事、チャオと小説と黒歴史(2)では、もうひとつ別の視点でお伝えしたくて、それは「今失ったものを過去の自分は持っている」という事実が誰でも存在するということです。
世界の歴史を学んで今に生かす、とはよく言われる教訓ですが、これは個々人にも言えることで、自分の過去を振り返って今に生かす、ということはとても大切だと考えます。
一見して「黒歴史だ、最悪だ、もう捨ててしまいたい!」と思った中に「おっ、やるじゃないか」と称賛してしまいそうになる鋭い表現や、物語の展開が眠っているかもしれません。
そして、そういう形で気づくということは、今その発想を失っているということですから、とても良い教材になるんじゃないでしょうか。少なくとも、僕にとっては、思った以上に、過去の自分は色んなことを考えていて、そして色んなことを僕に教えてくれました。
先ほどは冗談めいた口調で過去ログを残した某Cさんを詰りましたが、……まー、ちょっぴり感謝の念もありますよ。本当はね。
※でもやっぱり「消えていてほしかったなあ……」と思う自分も確かに入るんですけどね(笑
皆さんも、それなりに黒歴史をお持ちでしょう。
その黒歴史が、週チャオに眠っている人は、僕以外にもいることでしょう。
ですが、それは本当に全否定の対象、多少の肯定はあったとして、それが今に繋がっているという解釈だけで終わっていませんか?
そこに、今のあなたが失ってしまった何かを思い出させるヒントはありませんか?
こうした形で過去の作品を覗ける機会があるのですから、恥ずかしがらずにこっそりと、自分の作品を覗いてみてはいかがでしょうか?
週刊チャオライブラリーは、幼かった時代、一人の人間として確かにそこにいた、過去の自分自身を振り返りたいと望む、そんな皆さんのことを、いつでも、いつまでも、歓迎してくれることでしょう。
――というわけで、今回は、特にこれだ、という作品を取り上げることも無く、〈歌詞〉としてまとめて紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?
次回執筆予定の〈チャオと小説と黒歴史(3)〉では、もう一度(1)みたく、作品をピックアップして話をしようかと思います。
そして、チャオと小説と黒歴史シリーズについては次で最終回にする予定です。
とりあえず、現時点で考えているものとしては、
の三作品について軽く書いた経緯等を、それから、今の僕がどんな風に小説等の創作活動に携わっているかについて、今回と似たような文体でつらつらと語っていこうかと思います。
ぜひ、最後までお付き合いくださいませ。
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